吉野家に想う

2004/03/30

さてさていつもけっこうコアな内容の日記ばかりを書いてるこのHPですから、たまにはチョットくらい有名なネタなんぞを書いてみようと思います。

今、牛丼屋では牛丼を食べれないでいるってな具合で世間を騒がせてる。で、その代わりに豚丼などという吉野家からは全くもって想像もできないような奇怪な食べ物が世に出されているてな話じゃないですか。今頃そのネタかよって突っ込みの一つ飛んできそうですが、俺自身豚丼っとかいうヤツに興味を持つのに少々時間が要ったんですよね。

なんたってあの天下の吉野家がですよ。同業者の「すき屋」やら「松屋」やら「なか卯」と違って、牛丼一本で勝負を賭けてきた吉野が豚丼。はたしてどんな味がするんだか不安なこと極まりない。

そんなもんすき屋っていったら「並で。キムチ牛丼の」ってな具合で語尾に並にしたい商品の名前を言わなきゃいけない。松屋やらなか卯なんかにもなると「並で。」って一言でも店員に言おうものなら、「すみません。そこの券売機で券かってもらえますかー」とか言いやがってしかも周りで黙って牛丼食ってる連中が俺のことをチラっとかみやがったりなんかして中にはどんぶりで顔隠しながら胸の奥ではすすり笑ってるようなそんなリアクションが帰ってくるのですよ。それがですね、「並で。」って一言いえば即座に牛丼の並が目の前にだされる。「エーカン。並一丁」とかすげー威勢のいい返事が、俺の今発した言葉がそのまま店員の威勢となって店内を響き渡る。一言「並で。」って言える。そんな粋な吉野家が今、究極のピンチにさらされているという訳じゃありませんか。

以前から豚丼には意識を傾けてはいた。いちおうながら牛丼フリークな俺ですから目を傾けないはずがない。

他の同業者が「豚丼」を「とんどん」と名付けて発売しているにもかかわらず、あえて「ぶたどん」っと他の豚丼とは差別化を計っている粋な演出はさすが吉野家だ。豚の上にキムチ。今まで出したことも無いような新種アイテムをまさに隠しネタと言わんばかりに出してきやがったところもさすが天下の吉野家と言えよう。しかもしかも、今まで使い続けた「半熟卵」などのアイテムなども微妙にブレンドして発売するところも吉野家の戦術の上手さがにじみ出てると言えよう。

だがな、吉野家。俺は一言言いたい。あんたたちは、大切な何かを忘れていると。

今日最寄の吉野家に入った。正直発売して割引セールやら色々やっていながら今まで一度も食べには行ったことの無い俺が今更入るなんて一牛丼フリークとしては本当にかっこ悪いと思っている。こんな俺が豚丼屋となった吉野家に一言物申すなんて本当に恥ずかしい限りだが、吉野家に入って想う一言をここに書き綴ろうと思う。

そう、俺はとてつもなく焦ってたんだ。なんかな、最終電車が30分後に迫ってるわけだ。だからな、寄り道なんかせずさっさと駅に向かわなきゃいけない。

しかし駅までは歩いて10分。最終電車は30分後なのに何で焦るか?そんなもん答えは簡単。目の前のオレンジの看板、吉野家が気になってたまらんといった次第だ。

でな、俺もここで勝負に出たんだ。以前の牛丼を出していたあの時期の吉野家と同じ速度で豚丼を出せるとしたら、間違いなく俺は電車に間に合うだろう。だが、もしも豚丼という新種極まりない丼に店員もまだ慣れず、ぎこちない手つきぎこちないデシャップで豚丼をもっさりと持ってきたらどうだろうか。俺は間違いなく最終電車に間に合わない。でもって漫画喫茶で1280円払って始発電車待ちプランなんぞを使い朝日の見える時間まで寝にくい椅子で苦しみ悶えながら眠らねばならない。そう、ここで究極の選択をしなくてはならない。

そのとき俺の中に大きな決意が芽生えたんですよ。あんなに愛していた吉野家。あんなに慣れ親しんでいた吉野家。俺みたいな貧乏人にとって、吉野家ほど心温まる場所はない。そう、俺には以前吉野家にあった大きな信頼ってやつがあるのですよ。だからね、俺は心の奥底から深く深く信じた。OK吉野家、オマエを信じるぜ。

自動扉の開く音。その扉が開ききる前から店内に響き渡る威勢のいい声。「いらっしゃいませー」無言で丼にくらいつく人々。それをカウンターの中から真剣に見つめる店員。看板の色、ポスターの色、店員のユニフォームの色、その全てが吉野家を演出していた。

「並で。」

控えめながらも並を頼む俺。いつも男は大盛りと心に決めていた俺のさりげない妥協。正直言って豚丼というものに心を開けていない。まるで転校したてのクラスメイトのように心を閉ざしきっている。そう、牛丼の戦場しか知らない俺にとって豚丼を売っている吉野屋は異国の地。周りは全て警戒のかたまり。で、俺の並というオーダーに帰ってきた返事は。

「ええっと、豚丼のですか?」

はぁ?

おい今何といった今。オマエもう一度言ってみろ。あのな、「並で。」っていう客の言葉には「並一丁」だろ。もはや不可抗力のように口から勝手に「並一丁」って威勢良くでるのが吉野家の店員だろ。それくらい基本だろ。

ああ、そうなのか。やはり吉野家は変わってしまったのか。「並で。」このたった三文字でオーダーを通せてしまうあの粋な演出の吉野家はやはり変わってしまったというのか。「並で。」この言葉でオーダーを簡単に通せてしまう吉野家、それはまさにバーで「いつものやつお願い。マスター」ってかっこよく言えちゃうようなそんな演出に似た粋なサービスの一環だったのですよ。

時給約1000円以上。どこの吉野家でもつらぬいているこの高時給。この秘密はやはりこんな演出を生み出す店員の粋なサービスあってこその高時給だと俺は心の底から思うのですよ。一時期「並 つゆだく」っとか下手なシロウトオーダーだって続々誕生した訳だが、それもまたムードのいいロマンチックなバーで「いつものやつお願い。マスター」っていえないような迷える子羊たちがいたからこそ誕生した社会現象な訳で、それに対していさぎよく「並一丁」って威勢のいい声で答えることができたからこそ吉野家は大きくなれた。強くなれた訳だ。

それが今、失われている。吉野家は本質的なところを忘れている。

「並で。」の一言に、「ええっと、豚丼のですか?」っていちいち聞きなおさないといけないくらいにさまざまな種類の丼を出してしまったこと。「並=豚丼」という基本方程式をアルバイトに植えつけなかったこと。これが大失敗なのである。ロマンチックなバーで「いつものやつお願い。マスター」って言えなくて、そのあげく吉野家でも「並で。」っていえなくなってしまった。そんな迷える子羊たちはどこへ行けばよいのだろうか?今までその粋な演出が見たくて吉野家に来た人は、一体どこへ消えうせろというのだろうか?これでは「豚丼」を「ぶたどん」って差別意識をもって呼んだ意味がない。今の吉野家ははっきり言って「すき屋」といっしょだ。

入っていきなりショックを受けた俺は、今度は椅子に座り改めて返事を返した。「豚丼の並下さい。」

丁寧な口調でゆっくりゆっくりと一言一言かみしめていった。今は無き吉野屋の牛丼とはまた違った別の言い方で。豚丼、豚キムチ丼、カレー丼、様々な並盛の中から豚丼の並盛をチョイスしたと、複雑な心境で言った。

「ありがとうございます。豚丼並一丁」

店内に響き渡る威勢のいい声。これはたしかに変わっていない。あの全盛期の吉野家と。仲居だってCMに出てたし、毎月9日10日は牛丼の日だったし、そんなあの頃の吉野家とは全然変わっていない。そうこの部分だけはけっして変えてはいけないと思う。

その威勢のいい声に、すぐさま反応して並がデシャップ台に出てくる。その時間わずか15秒。うむ、他の同業者には負けない素早さ。これだけは間違いなく吉野家だ。あの時感じた吉野家だ。丼の器のみで出てきたあのときの吉野屋とは違い、いまは盆と一緒にセットになって出てくるようだが、その威勢の良さと素早いデシャップ力。これだけを見れば盆がついていようと全く気にならない。この盆が吉野家の必死の策ともなれば俺はまったく気にならない。

香りは若干変わったような気がするが、見た目はほとんど変わらない豚丼。それを早速実食してみることにした。

箸でつかむ肉の感覚、米の汁の吸いつきよう、これもまたまったく変わらずいつものように美しい。実に美しい。。丼の器ごと持ち、口にあてがって箸で押し込む。そう、いつものあの牛丼スタイルで俺は食すことにした。吉野家ではこんな食い方が一番だ。想像しただけでよだれが出る。

一口一口、さすがに豚にもなると若干味も変わってくるなぁ。そんなことを思いながら黙々と箸を進めていた時、ふと俺はとんでもないことに気が付いた。

「(ごぼうだ。ごぼうが入っている。)」

そのとき俺は確信した。豚丼を「とんどん」と呼ばずに「ぶたどん」と差別意識を持って呼んだ吉野屋の意図を。全く粋なことをしてくれる。さすが吉野家だ。

あまりにも牛丼の無い牛丼屋で牛を食いたいが故にカルビ定食などに手をつける庶民の間の牛丼屋で、カルビ定食などというものを置かないその吉野屋の意図が読めた。コ、コレならなんとかなる。

そうまさに俺はその瞬間、牛丼の無い間はコレでガマンしようと決意したのだ。いくらでも待とう吉野家。牛が日本に輸入されるその日まで、俺はいつまでも豚丼を食い続けてやるよ。いくらでも、俺は待ち続けるよ。

そんな感じで目とかすげーうるませながら満足げな顔で吉野家を後にしたんです。勿論、吉野家店員の相も変わらず素早いデシャップスピードあって、電車には遅れることなくむしろ余裕を持って乗り込むことができた。なんか普通に階段使わずもっさりとエスカレーターとかに乗ってたし。

まぁ満足は満足だったが、100点とは言えない。俺はまだ忘れていない、「並で。」この一言でオーダーが完璧に通ったあの頃の吉野家を。

世の中の人間ってのは変化をとてつもなく嫌がる。新任教師を虐める生徒だとか、背が低いが故に虐められる子だとか、今までと違うとか他とは違うとかそういった「違い」ってのをいつでも見つめ、それを毛嫌いする。たしかにそんな視野の狭いままでいてはならないと思う。もっと世界を広く見て、そんな細かい違いなんて気にならない大きな人間にならないといけないと俺は思う。

だがこれだけは認められない。
「並で。」が通らない吉野屋だけはけっして。


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