妥協

2003/07/02

「ヒロ君お願いがあるんだが・・・」っとまぁ深刻そうな顔で部長さんが俺を呼ぶ。

俺はホテルのアルバイトをやっている。人の部屋にフルコースディナーからワイン、タバコからストロー一本までなんでもお届けしてしまうルームサービスという仕事をやっている。たとえどんなものでも誇りと責任を背負ってお客さまの部屋まで届ける。

人にぶつからないように物凄い勢いで料理の乗ったワゴンを押して廊下を駆け抜ける、たまに人をはね飛ばすこともしばしば。エレベーターでは少しでも早く到着できるようにボタンのある右側のポジションをキープ、もはや誰にもボタンを押させない勢いだ。こんな戦いを繰り広げながら毎日一秒でもはやくお客様の待つ部屋まで命を張って突っ走る。もはや毎日が戦争とよんでも全く過言じゃない。ホテルの裏はホテルマンとホテルマン同士が火花を散らしてぶつかり合うまさに戦場。

そんな戦績が認められたのだろうか、むしろもっと戦えと険しい表情で怒鳴られるのだろうか、一体どんな理由だかわかんないが物凄く深刻にマジな顔で俺を部長さんがよぶ。俺にしか語れないようなディープな悩みでもあるとでもいうのだろうか。

「はい?」

呼ばれるままに俺も反応。かれこれ3ヶ月は働いているのだが、こんな険しい部長さんの顔は見たことが無い。酒に酔って真っ赤な顔になった部長さんならかれこれ数十回はみてきたがこんなキワドイ顔は初めてだ。驚きだ。

「ヒロ君、契約社員にならないか?」

凄い一言が発せられた。今までに感じたこと無いような衝撃。どれだけ俺はこの契約社員という響きにあこがれただろうか。

機械の仕事に就く。そう心に決めて毎日専門学校代を稼ぐ毎日。たいしたこと無いかもしれないがけっして楽ではない。寝ないで働いてでも稼ぎきろうと心に決めて働いてる。将来は機械だ機械。

呪文のように毎日専門学校専門学校と唱える毎日。しかしこのアルバイト漬けの生活で、どうしても妥協しそうになる瞬間というのが確かにある。それがまさに契約社員。永久就職。不況の世とはいえ、アルバイトなんかよりもずっと未来のある響き。このままフリーターを辞めてなんども就職活動しようと考えたことある。

しかしこのままあきらめればそんなもんちっぽけな人間で終わってしまう。人生妥協。俺の夢はしょせんそんなもんだったのかと・・・

先の見えない生活にちょっとだけ不安を覚えつつも、それでもまぁなんとかがんばってきた。そんなときに向こうから就職の話が出向いてきた。就職しねぇぜと気合で踏ん張ってる俺に就職の話なのだ。世の中本当にうまくできてるもんだと思う。

そんなもんホテルの契約社員っていったらほとんどが大学とかホテルの専門学校出てるエリートな訳だ。俺みたいな誰でも卒業できるような私学の頭の悪い高校出てる人なんか誰一人としていない。エリートの中のエリート。そこに俺が誘われているのだ。はんば夢なんじゃねぇの?って疑ったね。ほんと3回くらいは聞き返したかった。

聞く話によればホテルという仕事には資格というものが存在しないらしい。いやまぁ確かに探せばそういうのもあるのかもしれないが、結局この業界は技術と経験。学校を出ても出なくてもそういう力さえ持っていれば仕事に支障をきたすことなど何一つ無いらしい。ホテルの学校行ってる人には本当に申し訳無いが、ノンフィクションでそんなこと言ってた。

もうひとつのドーナツ屋のバイトでは全然仕事できないと歌われている俺だが、どうもこっちのホテルのバイトの方では仕事を早く覚えるタイプに入るらしく、なんか異様に気に入られているらしいのだ。自分から仕事しようしようと積極的だから、中年のオッサンにはウケがいいみたいですわ。ほんとドーナツ屋とは正反対だ。あまりにも仕事できないから首にされかけたこの俺がホテルでは優秀だぞ。意味不明。

家に帰ってそのことを家族にうちあけてみた。

母は大賛成だった。っていうか大賛成ってなんだよ。俺がいつホテルに就職したいって言った??俺は機械野郎にはなると言ったが、ホテルマンになるとは一言たりとも漏らした覚えはねぇーよ。何勝手に俺の人生決め付けてるんだ!

しかし母は真剣だった。フリーターという世間体の悪い俺を、近所では誇りの息子に仕立て上げている。学校にすら行けなかったダメな俺を、凄い人とかみたいな感じでかなり背伸びさせてる。もう必死だ。

正直ホテルの社員ともなれば世間体はいいだろう。ホテルが買収されるという話なら聞くが、ぶっちゃけ街のどまんなかのホテルがつぶれるなんて話めったに聞かない。不況でありながらかなり未来の明るい職業といえる。

収入も若いうちは安いとはいえ、将来的にはかなり安定だ。父がなしとげられなかったすべてを、この職業は満たしている。息子だけでも安定職についてほしいと願う母の意志はエベレストなんかよりもずっと高い。

「一流のマナーとやらを身につけて少しでもかっこいい大人に近づきてぇ・・・」そう心に想い、願いをぶつけたホテルのバイト。願いは異常なまでに届いてしまった様子。

揺れる俺の将来。真剣に悩む・・冗談抜きで。

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